カテゴリ:五木の生活文化( 342 )

桜の散る音


冬が終わって、山桜の季節がもう過ぎようとしている。
この季節、五木を車で走っていると、ここそこに山桜が隠れていたことに気づく。

雨の日もいい。
濡れた幹にやわらかな新緑の彩りが映える。
川辺川の水面から霧が立ち、山すそを駆け上る。

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掛橋あたり、川の右岸側だったか。
2005年4月10日は、こんな風景だった。

同じ日、溝の口の薬師堂の中から、堂の前の苔庭に
桜がはらはら散るのを見ていた。

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桜の散る音さえ聞こえそうな、静かなひととき。
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by from_itsuki | 2008-04-11 01:44 | 五木の生活文化

なぞの渡辺家


この地域では、焼き畑のことを「コバサク」と言う。

木が生えている場所を「コバ」(木場)というのに由来するらしい。
畑になるような開けた土地の少ない五木では、コバサクこそが重要な生産の場であり、食料調達のフィールドだった。

茂さんが元々住んでいた田口地区(今は一軒だけになって、他の家は村外や裏手の代替住宅地へ移転してしまったが)は、例外的に「ダンナ」家がない。

しかしその他の集落には、大抵「ダンナ」と呼ばれる地主の古い家がある。
コバサクは、山林地主であるダンナの山を借りて作るものだった。

中世の記録に、五木には33人の地頭(=ダンナ)がいたという話は、割と知られている。
いつか正式に調べてみたいと思いつつかなっていないが、そのうちの数軒は家がつぶれたり、村の外に出て行ってしまっていると聞いた。


このダンナ家や、五木村の庄屋だったとされる「渡辺家」の成立や盛衰は、山村文化や共同体の変遷をたどる上で非常に興味深い。


田口にダンナ家がなかったのは、庄屋だった「渡辺家」が「ツブレ」て「東京」へ出て行く時、持っていた山を地区の数戸の家や、地区へと寄贈したからだと言われている。

それがいつの頃のことなのか、私はまだ確認できていないが、「東京と言うからには明治になってからだろう」と茂さん。
ちなみに、役場の土地台帳(明治22年前後)をざっと調べてみたが、渡辺という姓を見つけることはできなかった。

田口にはダンナ家がないため、土地や山は、古くからの10軒(元は11軒だったが、かなり早い時期にうち1軒は財産を処分して村を去った)の農家による「10人持ち」「5人持ち」「3人持ち」などの共同所有になっていた。
茂さんの家もその一軒で、共同の山が多くあり、個人持ちの山はわずかなのだと言う。


渡辺家の最後の当主は、豪奢な生活を相良藩の殿様に咎められ、河原で切腹
させられたという話が残っているほか、「渡辺家の墓」と呼ばれる墓があり「渡辺星」と呼ばれる家紋が刻まれていたのを私も確認したことがある。

(残念ながら、移転や補償の混乱の中、元下手(しもて)地区にあった渡辺家の墓がどこにあるのかは未確認である)

その家紋は、現在では溝ノ口のダンナである木野家の家紋となっている。
溝ノ口のダンナは、渡辺家がツブレたあと、実質的な庄屋として存在したのだろうか。


地元には「渡辺家」と親戚にあたる家もあるらしい。
一度確認してみたいものである。
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by from_itsuki | 2008-03-19 03:42 | 五木の生活文化

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