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(記事)火論:五木の山に雪深く


端海野(たんかいの)は、五木村の奥座敷とも言える高原地帯。
松永さんは、いつかお会いしたいなーと思っている方のおひとりです。

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■火論:五木の山に雪深く=玉木研二

毎日新聞 2011年1月18日 東京朝刊

 熊本県五木村の松永泰男さん(59)からいただいた賀状に「年末からの大雪は60センチに達し、三日間は陸の孤島でした」とあった。そして「35年間の農業にピリオド、開拓地の灯を守れなくて亡き両親に申し訳ないです」と記されていて、はっとした。

 松永さんとは26年前、川辺川ダム計画問題の取材で村に泊まり込んだ時偶然知り合った。水没予定の村の中心地から遠く、標高1000メートルの高地に残る開拓農家だった。

 敗戦後、政府は慌ただしく「緊急開拓事業」を始める。海外からの引き揚げ者、復員兵、失職者らをそこへ受け入れるとともに、食糧増産も図ろうというものだった。各地の未開の山野に人々は入植した。ほとんどは農業未経験者だったといわれる。

 五木村の開拓地に集まったのは30戸。それまでの仕事は、畳職人、薬剤師、大工、南満州鉄道社員、新聞記者などだった。松永さんの父はフィリピンでマニラ麻の会社を経営していた。

 にわか農民となった入植者の苦労は並大抵ではない。アズキ、ソバ、サツマイモなどを植えてまず自給し、家の屋根はクマザサでふいた。1951年生まれの松永さんは、集落最初の産声を上げた。

 「38豪雪」と呼ばれる63(昭和38)年の大雪害は全国の開拓地の離村に拍車をかけたが、五木も例外ではない。水害も続き、開拓農家は次々に仕事のある町へ下りた。

 開拓地にやっと電気が通じた70年代初め、松永さんは弟の学資を作るため、東京と大阪の鉄工会社などで働いた。夜は学校の窓をアルミサッシに取り換えるアルバイトまでした。終えて村に帰ると、かねての決意通り農業を継ぐ。従来の作物に代え、キク栽培に活路を求めて成功した。

 だが、これには人手がかかる。残った開拓農家は松永さんの一戸だけだ。子供たちも成人しそれぞれの道を歩む。出荷先には惜しまれたが、松永さんは無念の終止符を打った。今は森林組合の木材搬出の仕事をしている。

 遠い日の松永青年の心を動かしたのは亡父の昔の日記だった。厳寒の正月2日には働き「何が何でも開拓を成功させるぞ」とあったという。

 その「灯」を守れなかったと言うが、松永さんは父母がくわを入れた土地に黙々と汗を注いで「最後の一戸」となるまで力を尽くしたのだ。

 おそらく全国中に、あらゆる家業や仕事に、こうした人物語はあるだろう。零細ながらも守り抜きたい灯。松永さんの賀状はふだん思い至らぬことを考えさせてくれた。

 五木は週末また雪が積もったという。(専門編集委員)

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(記事)火論:五木の山に雪深く_b0125397_20386100.jpg

(五木村を走る九州産交バス。一番前に座り、運転手さんとの会話を楽しむのが五木でのマナー(?)。 2010年7月10日)
by from_itsuki | 2011-01-19 20:41 | 新聞・メディア報道